中学受験合格のテクニック〜社会と塾・家庭教師選び〜

中学受験を考える親御さん応援ブログです。元塾講師が本音で語る社会の正しい勉強の仕方や受験のテクニック、塾や家庭教師の選び方について紹介しています。

タグ:織田信長

⑨安土桃山時代…その1〜織田信長〜では信長に関する重要な戦いや政策について触れていきましたが、ここでは次なる主役「豊臣秀吉」について述べていきます。織田信長と豊臣秀吉はその前後関係、つながりを意識して学習することが望ましいでしょう。


<豊臣秀吉>

 まず名前ですが、木下藤吉郎→羽柴秀吉→豊臣秀吉という順番で変わっていきます 。最も有名な「豊臣」姓は太政大臣になった際、朝廷から譲り受けたものですので、その活躍期においては「羽柴」が最も適切です。しかし、受験ではどちらでも構わないので「豊臣秀吉」で覚えておいて問題はありません。

 豊臣秀吉の第一歩は、賤ヶ岳の戦いです。これは、信長の死後、誰が信長を継ぐかで争われた戦いです。秀吉に対するは柴田勝家。⑨安土桃山時代…その1〜織田信長〜でも触れた信長の妹で浅井長政の妻、「お市」はこの時柴田の嫁になっています。ちなみに、秀吉はこの「お市」に恋心を抱いていたとされ、後継ぎ兼恋の争いだったのかもしれません。結果はもちろん秀吉の勝利、秀吉は力を我がものにします。

 信長がほとんどの領土を手中に収めていたので、秀吉は残っていた四国の長宗我部氏や九州の島津氏を攻めます。その課程の中で大阪城を築き、自身も関白、太政大臣とのぼりつめていきます。 

 そして1590年、最後は北条氏の小田原攻めを成功させます。これをもって秀吉の敵はいなくなり、天下統一が実現されました。

 つまり、信長が戦って得た残りを 吸い取ったのが秀吉、要はおいしいとこ取りです。受験でも、秀吉の戦いは出題は少なくなっており、この後の政策が出題されやすくなっています。

 秀吉の政策で重要なものは大きく分けて4つです。まずは①〜③を確実に覚え、それが済んだら④の暗記にいくようにしてください。

①(太閤)検地

 (太閤)検地とは、安定して年貢を取るために、全国統一のますを使ってとれ高をはかり、そのとれ高や土地の面積、耕作者の名前を検地帳に記録することをいいます。戦国時代にも検地はありましたが、申告制だったので、嘘をつくこともできたわけです。太閤検地は、役人自ら現地に赴いてチェックするので、嘘はつけません。つまり、国による徹底的な管理をしたわけです。

②刀狩令

 刀狩令は、読んで字のごとく、農民から刀などの武器を取り上げることです。なぜ、秀吉は刀狩をしたのか、理由を考えてみてください。答えは素直、農民たちの一揆の防止が理由です。そして、この①②の政策により、農民はより農民らしくなり、いわゆる兵農分離が進んだことも重要事項です。

③キリスト教制限

 信長と異なり、秀吉はキリスト教に対して厳しく当たりました。キリスト教の自由や平等という考えは、秀吉の構想とはそぐわなかったからですね。江戸時代の鎖国に通づる部分もあるので、江戸時代のところで深く扱います。

④朝鮮出兵

 天下統一の次は海外へ、狙うは中国です(当時の王朝は明)。しかし、島国である日本にとっては足がかりとなる朝鮮が欲しいところ。そこで行われたのが朝鮮出兵です。文禄の役→慶長の役は元寇(文永の役→弘安の役)と混同する人が多いので特に注意が必要です

 このように見ていくと、やはり、信長は戦い重視、秀吉は政策重視と言えます。もちろん、全て覚えるに越したことはありませんが、あくまでも受験は点数を取ることに意味があります。教科書を読む際はこうしたアクセントをつけながら学習し、効率を求めて頑張ってほしいです。

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安土桃山時代は非常に学習のしやすい時代です。人物がしぼられ、時系列もさほど複雑ではないからです。

ポイントもいたってシンプル、織田信長・豊臣秀吉それぞれの行ったことをきちんと理解し、覚えておくだけです。

<織田信長>
 織田信長は誰もが知っている歴史上の人物です。しかし、小学校で習うものはそのうちのほんの一部に過ぎないため、ここでは入試を受けるにあたって必要な最低限の知識をまとめておきます。

①桶狭間の戦いで今川義元を破る

織田信長がなぜこれだけ有名、かつ、支持を得ているのか?元々、織田家は大名ではなく、家臣の1人でした。つまり、決して高いお家柄ではなかったのです。一方、今川義元は名門の出。そんな織田と今川が一戦交えたのが桶狭間の戦いです。誰もが「今川が勝つに決まっている」と思っていましたが、ふたを開けてみれば織田の勝利。これぞ、まさに下剋上ですね。各地の大名たちは、織田という人物に一目を置くようになりました。

②足利義昭を京都から追放

その後信長は、斎藤道三を破り、さらに京都へと進軍しました。この頃、幕府は足利義昭が15代将軍になっていましたが、ほとんど名目だけの将軍、その実権は信長が握っていました。これをよく思わなかった足利義昭は、信長を倒すよう周辺の大名にこっそり声をかけていたのです。その呼び声に応じたのが浅井・朝倉の連合軍。ちなみに、浅井長政の妻はお市といって、信長の妹にあたります。つまり、浅井からすれば、義理の兄を討とうとしたわけです。お市は大河ドラマ「江」で鈴木保奈美さんが演じたことでも話題になりました。
 
 しかし、信長の前に力つき、浅井・朝倉は滅ぼされてしまいました。これが、姉川の戦いです。また、この時に浅井・朝倉に協力していた比叡山延暦寺をも信長は焼き討ちし、近江・越前(滋賀・福井)をも支配するようになりました。さらに、信長は争いのきっかけを生んだ足利義昭を京都から追放、これにより室町幕府は名実ともに滅ぶこととなったのです。

③長篠の戦いで武田軍を破る

 学校でも習う有名な戦いが長篠の戦いです。信長は徳川家康と連合軍を組み、武田勝頼(武田信玄ではありません)を破りました。この時、信長が利用したのが鉄砲です。 無敵の騎馬隊と言われた武田軍が簡単に負けたことは、新たな時代の幕開けの予感となりました。

④本能寺の変で自害へ

  武田軍をも破った信長、残す相手は上杉謙信と毛利輝元のみ。謙信が病に倒れたため、まずは毛利を破ることを考えた信長は、その筆頭として秀吉を派遣しました。信長も秀吉を助けるため、安土城から京都へ入京、しかし、この時に泊まった本能寺で明智光秀の裏切りにあい、志半ば、天下統一まで後1つのところで倒れてしまいました

⑤信長の政策

 ここまでが信長の一連の流れですが、信長の政策についても触れておきましょう。

 1つ目は楽市・楽座。室町時代は「座」 と呼ばれる同業者組合が営業を独占しており、いわゆる自由な商売が許されない時代でした。信長は、そういった制限をなくそうと考えました。これが楽市・楽座です。楽=自由と考えればいいでしょう。 信長の自由への考えは交通にも表れ、通行料をとる関所を廃止したことも覚えておきましょう。

 一方、宗教に対しては厳しく取り締まり、特に一向宗の中心である石山本願寺への攻撃は有名です。自身を「第六点魔王」と称し、仏様をも恐れない人物だったようです。逆にキリスト教は厚く保護しており、新し物好きの信長は、宣教師を積極的にもてなしていました。

  このように信長だけでこれだけたくさんの内容があげられ、歴史好きの筆者としてはまだまだ言いたいことがたくさんあります。しかし、信長の勉強ばかりもしていられませんから、これにとどめておきます。

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