鎌倉時代は1192年に始まり1333年に滅亡、すなわち、約140年の歴史があります。極端に長いわけではありませんが、平安時代同様、ひとくくりにするのはあまり望ましい方法ではありません。あくまでも、その中心地が鎌倉にあったというだけですから、やはり鎌倉時代も3つに分けて考えるのが得策です。

 分け方は、

①鎌倉幕府の成立〜幕府の仕組み〜
②北条氏による執権政治と承久の乱
③元寇と鎌倉幕府の滅亡


の3つです。つまり、

どのように鎌倉幕府が成立したのか?そして、幕府の中身とは何なのか?さらには、幕府がなぜ滅亡に至ったのか?をおさえておくことが重要ということになります。


①鎌倉幕府の成立〜幕府の仕組み〜

平安時代の復習になりますが、平安後期には武士と呼ばれる人々が現れ、平氏と源氏という二大勢力が誕生しました。最初に軍配があがったのは平氏、平清盛が栄華を誇ったのは有名です。

 しかし、平清盛の暴政に不満は募る一方、さらに清盛は「天皇を幽閉してしまう」という暴挙に至ったのです。

 「清盛を倒すしかない」

その想いに立ち上がったのが「源頼朝」です。頼朝にとって清盛は、父である「源義朝」のかたき。頼朝は、源氏を率いて平氏討伐に向かいました。叔父の義仲、弟の義経の活躍もあり、次第に平氏を追いつめ、1185年、壇ノ浦の戦いを最後に平氏は滅亡、源氏の時代が始まったのです。

 源頼朝に関連して覚えることはいくつかありますので、ここで羅列しておきます。

・守護、地頭の設置
 平氏を倒した頼朝ですが、不満もありました。それは弟の義経が後白河天皇に気に入られていたこと。弟とはいえ、会ったのは数回、次第に義経への嫉妬は高まり、とうとう義経を捕らえることに決めました。そんな義経を探すために置かれたのが守護、地頭です。覚えておくべきは「守護は国ごと、地頭は荘園ごとに置かれた」ですが、きっかけは弟人気への嫉妬であったことは暗記を助ける意味もあるので、覚えておくといいでしょう。

・征夷大将軍となる
 1192年に、朝廷から正式に征夷大将軍の命を受けます。元々は蝦夷討伐のためのリーダーという意味で始まりましたが、この頃からは武士のトップの証として扱われています。

 鎌倉幕府の成立には1185年説、1192年説があります。1185年は上記の守護、地頭設置の年です。一方、1192年は征夷大将軍となった年。つまり、

「守護、地頭を置いたということは実質的には全国を支配するトップになったということだからそのタイミングを幕府の成立としよう」

というのが1185年説、そして、

「幕府の成立は征夷大将軍という武士のトップになったタイミング、すなわち、形式的にリーダーと美認められたときを幕府の成立としよう」

というのが1192年説です。

実際は、歴史家たちが言い争っているだけで、どちらでも構いません(テストの場合もどちらでも正解ということになっています)。個人的には、やはり「いい国つくろう」という響きが好きなので1192年がいいかなと思っています。

・幕府の仕組み
幕府には様々な機関が置かれ、機能的な仕組みを作り上げました。それぞれ簡単にでいいので覚えておきましょう。

 執権…将軍の補佐役(いわゆるナンバー2的な役割になります)
 政所…政治一般(漢字がそのままなので覚えやすいでしょう)
 侍所…軍事一般(今でいう自衛隊みたいなものと思えばいいでしょう)
 問注所…裁判一般(裁判所の役割です)


また、もう1つ大切なのは「封建制度」という武士と将軍の関係性。

将軍は土地を与える→代わりに武士(御家人)は命がけで戦う

というご恩と奉公で結ばれた関係を「封建制度」と言います。特に「奉公」を「奉行」と書く子が多いので漢字には注意が必要です。

長くなってしまったので残りは次回とします。少し先を話すと、鎌倉時代=源頼朝のイメージが強いと思いますが、「源」は最初だけ、この後は北条氏が力を握ります。頼朝はあくまでもきっかけに過ぎないので、頼朝ばかりにならないよう注意してほしいです。

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